イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。
この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
「わたしに何をしてほしいのか」とおたずねになると、「主よ、見えるようになることです」と答えた。
そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。
イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
わたしはわたしを求めなかった者に 問われることを喜び、 わたしを尋ねなかった者に 見いだされることを喜んだ。 わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、 「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。
わが霊のわがうちに消えうせようとする時も、 あなたはわが道を知られます。 彼らはわたしを捕えようと わたしの行く道にわなを隠しました。
わたしはあなたの憎むべき行い、 あなたの姦淫と、いななき、 野の丘の上で行ったあなたのみだらな行いを見た。 エルサレムよ、あなたはわざわいだ、 あなたの清められるのはいつのことであろうか」。
さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。
この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。